数年前のお話です。
いろいろな仕事を難病を抱えて渡り歩いておりました。
病名は潰瘍性大腸炎。私の場合は再燃性が非常に強く十数年もがきました。これは大腸の摘出手術を受けて2年後ぐらいにあった本当の話。
地方創生とさまよう若者
その頃の私は35歳くらいで、もう若者ではなかったのですが、HPの制作実績を積むために必死でした。だから胡散臭い地方再生事業に参加してでもキャリアが欲しかったのです。
よくある排他的な街。それが第一印象。
手取り16万円。そこから住居費とかひかれて田舎に買われるわけです(悪いい方ですが)結構どこでも募集していますね。
記事を書いたりHP制作、カーナビをフル活用して取材したり、お店に交渉へ行ったりそんな業務内容です。
もちろんガソリン代の支払いはあってほしいわけですが、経費扱いになる人がいたりない人がいたり。車必須の雇用条件だったのに車を持たない人がいたり。
今思えば無法地帯でした。私も引っ越して1週間で「ここはやばい」と思いましたが引っ越ししてしまっているのでどうしようもなく…。
狭い社会なのでIターンUターンの人ともお話しする機会があるんですよね。引っ越してきた理由は様々ですが、都会に疲れただったり、田舎でのんびり農業したいだったり。様々な人がいるはずなのにふわりと漂って固まっていく感じとでも言いましょうか。固まり方もいびつでやはりどこに行ってもコミュニケーションができないと難しい。それを改めて思い知らされました。
右も左もわからない中で私は入ってはいけないコミュニティに入ってしまった。そこからいじめが始まりました(笑)私自身にも問題があって、自我が強いのでいじめにあいやすいんですよね。生きづらいです。
どこにいても、どこから来ても私も周りも日本人なんですよね。
地方の引きこもり支援
どこにいても引きこもりにはなるんです。辛いことがこの世には多い。苦しいし、生きずらい。
田舎でも支援センターがあり様々な方が存在している。あるのは知っているが実態はわからない。それが感想。
一軒家に10代から様々な年代の人が、近所に話しに来るかのように笑顔で集まるアットホームな肌感覚を覚えました。
正直、私は一瞬で嫉妬しました。
私の事をまた少し足しますと、寝る前には毎日死にたいと思っていたし、殺人が起きれば「なぜ殺された人が自分ではないんだろう」なんて思うような希死念慮が強い人間です。でも働かないと生きられない。体が苦しくても働かなければならない。そう親に育てられてきました。そう思って生きてきましたし、ほかに方法があるとさえ思わなかった。
そこに認識のずれがあったのだろうと感じます。ほの暗い闇が足元に流れつま先を冷たくしていくのを感じました。
また私がここにいる理由も問題でした。地方創生プログラムの一環に携わっている事実作りのため「とりあえず行って」という社長命令だったからです。
引きこもりセンターで年齢は変わらない感じの3人の男性を紹介されました。リーダー的な彼が椅子に座りおもむろに口を開きました。
「私たちに何をしてくれるんですか」
引きこもりの方に私たちは何ができるのか
かなりぶっちゃけた話をしております。やけくそです(笑)
この田舎で私は地方へ流れ着いた若者たちに会いました。心を壊した人。ゲーム依存になってしまった人。私もここに何かの拍子に流れ着いて、職場でいじめを受けていました。
彼らは私の事情なんて知らないですし、この小さな田舎で知らない人たちが寄り添い、助け合いながら自由を求めてあがいているなんてことも知らない。
それでも私は言わずにはいられなかった。
「何をしてくれるではなく、何かできる事を教えてくださいでしょ!」
彼らは黙ってしまいました。私のような女に自己紹介そうそう叱られるなって思いもしなかったでしょうから。
新しく田舎に越してきた人たちと何か接点があれば、考え方が変わるきっかけがあったのかもしれません。会っても同じことを言うのかもしれません。答えはすぐそばにあるかもしれないのに交わりそうで交わらない。人の交流って難しい。
それから私は数か月で実家に戻りました。その短い間にエンジェル投資家とあったり、企業セミナーに参加したり、地方議員とやりあったり(笑)濃密で忘れられない仕事でした。
今でも彼らの言葉が耳のそばでささやくことがある。
「私たちに何をしてくれるんですか」
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